京菓子寸話「黒糖」
黒砂糖は、黒糖とも呼ばれてお菓子の材料としてよく使われています。素朴な色あいの黒糖は、同じ砂糖でも白砂糖や和三盆とは違った味わいがあり、いわば南国の太陽とサトウキビの匂い、どこか郷愁をそそる甘さが舌の上にとろけて、またとない魅力があります。
黒糖ができる仕組みは、サトウキビの茎から液汁をしぼり出してアルカリ性の灰分などを加えながら煮つめ、冷却して結晶化するのですが、白砂糖の分ミツ糖に対して含ミツ糖です。
砂糖の歴史はまず黒糖から始まり、白砂糖が出現したのはそう古い時代ではなく、長い間砂糖といえば黒糖のことだったわけです。
北野名物「風流だんご」は太閤秀吉の北野大茶湯にちなむ名物だんごですが、黒糖の香りのよさが求肥や豆粉のおいしさと調和して、食べたあとに絶妙の余韻を残してくれるとおほめをいただいております。「鶴屋吉信ようかん・黒糖」は沖縄県産黒糖を使用した、しっとり濃厚、コクのある甘味の小型タイプの羊羹です。
江戸時代の農学者大蔵永常が天保15年に著わした「広益国産考」のなかで「砂糖は二百有余年巳前には、高貴の人ならでは知る者なく、下賤のものは見たる事もなきに、元禄時分より唐黒(とうぐろ)といへる一種の黒砂糖舶来し、其後薩摩の別島(べつしま)喜界、大しま。徳の嶋に作りいだし、大坂へはじめて七八百石づみの船一艘に積登りしを、薬種問屋ども引うけて入札したりしよし」と書かれている通り、砂糖は大変な貴重品で、宮廷や将軍などごく一部の人の口にしか入らなかったのでした。それも薬用で、お菓子の材料となって使われるのは江戸時代もくだって幕末になってからのことです。
砂糖の起こりはインドといわれ、梵語でサルカラといってサトウキビの茎から製した蔗糖を意味しました。それが古代中国へ渡り、またアレキサンダー大王の遠征ルートによって紀元前にギリシャへも伝えられました。
わが国に始めて砂糖が渡来したのは天平勝宝6年(754年)、唐僧鑑真が入国のとき、珍しい文物とともに二斤十二匁の黒糖を舶載し、薬品として天皇に献じたときのことです。その後、遣唐使の船によって留学僧らが大陸から黒糖を宝物のようにして持ち帰りました。
奄美半島が特産地となったのは慶長年間に大島の住人が航海中台風に遇って船を流され大陸に漂着、そこで砂糖づくりを学んで帰ったのが始まりといわれます。元禄の頃には上方の文豪井原西鶴の目に黒糖が触れることもあったらしく、「西吟一日千句」の付合せに 黒砂糖たから成りたる中よりも 友雪 其佛を見れば羊羹 西鶴 というのがあります。